2-2 時間の基本単位を見直す
まず、光の時間進行は、基準であるべきであるとすれば1であり、0にはならないということを確認します。これが深い意味を持つのは、光速度で動くものの時間は止まった状態であると、なぜか軽く言われていますが、そうではなく、ある一定の時間進行を必ず伴うと考えることが正しいのではないか、という問題提起です。
10光年離れた場所に、反射板を設置し、これにある種の信号を当てることにします。信号は必ずしも電磁波ではなく、それぞれの固有な速度を持つとしましょう。この反射板は理想的な材質で、ニュートリノさえ反射させます。ニュートリノについてはいろいろなことが言われており、まだ確定的ではないようですが、とりあえず微細な質量をもち、ほぼ光に近い移動速度を持つとします。また、そういう物質もあるという前提にします。
1 もし光を送ったとき、距離は片道10光年なのだから、往復20年掛けて戻ってくる。
2 次に、光よりも速い信号を送る。これは確かに20年後よりはもっと前に戻るが、放出する現在よりは後になるだろう。決して放出時点をさらに遡った昔に戻ってくることはない。
3 信号が無限大の速度を持ち得るなら、放出と同時に信号を受け取ることができる。
4 光よりも遅い信号の場合、もちろん20年後をさらに超える未来に地球に戻る。
私はこの四つの項目に、理論的に無理なところがあるとは到底信じられないのですが、相対論では違う見解を打ち出すことになるでしょう。ひとつずつ検討します。
まず項目4はどちらの立場でも異論はないはずなので、考察から除外いたします。実は、同じ結果に至るとしても、経過は違います。しかしその違いはほかの項目の内部で論じたほうがわかりやすいと思われます。
項目1は「もし光を送ったとき、距離は片道10光年なのだから、往復20年掛けて戻ってくる」という当り前の意見ですが、このとき、相対論の解釈に従えば、光は歳をとらない(光に近い速度で動く宇宙船で二十年の旅行を楽しんだ人はほとんど若いままで帰還する)のですから、本来ならば光の放出を見送った私と受け取った私は同時刻に存在しなければなりません。これはいかにも背理です。放出を見送った私と受け取った私が同時刻に存在するとは、衒学趣味で言うならトークンアイデンティティー上別のものであってはならないということでしょう。
しかし無時間的であるということは二様に解釈されてしまうでしょう。信号放出時の私とそれが戻ってきたときの私は同時空間に存在できない。これが可能であること、端的に言うなら射出と同時に反射して戻ってくる信号を受け取ることが、光の無時間的であること、比喩的に言えば歳をとらないことの意味であるべきとは思いますが、相対論の支持者はこの解釈を受け入れないでしょう。それは理論的な根拠によるのではなく、これを満たすことがあきらかに不可能だからです。そもそもが、現実のこととして光は一定の時間をかけて目的地に到達しているのだから、この意味での無時間性は最初から成り立ちません。この場合には無時間的であるということを信号にとって世界が変化しないこと、と理解しているわけで(なぜなら1兆年の間まったく変化しない物質があったとして、私たちはそれでもこの物質は1兆年の時を閲したと言うでしょう)、相対論は逆に、私にとって信号が変化しないことと取ることを求めるわけです。すなわちあるものがどこかへ移動し、それがもとの場所と同時的空間であり得るなら、このあるものにとって、時間は経過してなかったと言えましょう。光がそれなりの時間をかけて往復して元のままであるということは、観念的に同時的空間であることと同じ意味を持たされています。これはもちろん先に言ったとおり、発生し移動することは明らかに光にとっての変化であり、時間を持つことと同義なのですから、私は正しいとは思いませんが、そういう意見もありうるとは思います。これは譲歩なのではなく、時間は相互的なものであるとか、変化するということの意味についての議論は過度に哲学的であるので、いずれにしても納得してもらえないという諦念に近いものです。
例えばあなたが江戸時代にタイムリープする。人は、どこかへ旅行する感覚でこれをとらえる(すなわち時間を空間として理解する)ので、あり得ることのように思います。しかしあなたの経験が連続的であるなら、つまりあなたがあなたのままでタイムリープするなら、あなた以外の全宇宙が二百年若返ることがこのタイムリープの意味なのかもしれません。それはとてもあり得ないことのように思えます。私が言いたいのは、だからこの考え方は不合理だ、ではなく、どちらが正解なのか決められないから、この考え方には無理がある、ということなのです。
もう少し具体的に考えます。初めから光速度を考えることはおそらく拒否感を抱かれやすいと思うので、限りなく光速度に近いものを想像してみることにします。光と、超高速有人宇宙船を同時に発射し、まったく同じコースをたどらせます。先に書いた通り、現実の光は常に理論上の光速度で動いているわけではないので、この宇宙船は時によって光を抜く可能性もある程度の速度、ということにしましょう。まさか相対論の支持者も、10光年向こうの鏡に反射した光が20年後に戻ってくることまでは否定しないでしょう。宇宙船のほうもほぼ同時刻に戻ります。しかし同乗している者にとって、時間は恐ろしく進みが遅くなります。なぜなら、彼女からみても、同時刻に地球を後にした光信号はやはり光速度で遠ざかるからです。光が到達した時点を同時刻と定義するのだから、彼女はほぼ歳をとらずに帰還します。距離のスケールがローレンツ収縮で変化するとしても、光は彼女にとって結局20光年分(ニュートン力学の計算で。相対論によれば違う、と言われることはわかっています)先着するのでなければなりません。
宇宙船の相対時間は遅くなり(つまりスローモーションで進む)、かつ宇宙船は縮む。この状態で客観的な20光年の距離を移動することは、恐ろしく時間がかかるということ以外の意味を持ちうるものでしょうか。明らかにこの描写はナンセンスなので、「相対時間が遅くなる」ということの意味を、実際(つまりニュートン力学的な観点で客観的に見る)よりも速く移動するように見える、としたらどうでしょう。つまり「遅く感じる」からには、時間のコンテンツを彼女のほうがより多く消化できるとしたらどうでしょう。しかしこれでは光よりも速くなる(この一文の意味はすぐにわからなくても良いと思います。このあとの文章で理解できるはず)。そこで、移動のルートすべてがローレンツ収縮で短くなると考えることにする。実際に、これが相対論学者の出した結論でした。ここでも、違うと言われることは承知しています。ローレンツ収縮は、物体が進行方向に沿って縮むことである、と。理由は、テキストにそう書いてあるからだ。相対性理論の本文にそう書いてあり、マイケルソン・モーレーの実験もそう解釈するのが正しい、と。しかし「物体が移動する全経路が収縮するわけではない」と念を押して書いてあるわけではありません。これは微妙な違いですが、恣意的な解釈を許してはならない部分になるかもしれません。つまり、物体だけが縮むと考える人は、一応そう宣言してはいるが、実際にはその考えを貫徹できていないようです。宣言はするが実行はできていないということが、相対論に関する言論の、余りにも多くの局面で見られます。
こう想像していただきたい。1キロの長さの宇宙船があるとすると、これをおよそ30万隻並べた長さを光は1秒で移動する。光の速さがこの宇宙船の速度に依存せず一定であるとは、仮にこの宇宙船がローレンツ収縮したとしても、常に1秒当たり30万隻分の長さを光が動くということです。もしこの宇宙船がかなり光速度に近い場合、1キロの全長はニュートン的な視点で1ミリになってしまうかもしれません。すると光速度はこの視点では秒速30万ミリメートル、時速だと千キロちょっとということになります。充分巨大な数字ですが、地球を七周半も動く光には遠く及びません。
この矛盾を、もちろん相対論では時間を弄ることで調整します。しかしいかなる調整のもとでも、20光年という距離に対し、縦につないだ宇宙船を置いてこれを測ってみたとき、数が増えてしまうという事実には変わりがないでしょう。極端な話をするなら、光速度の宇宙船は長さが0になるのだから、地球からどこかの星に行く経路に、無限の数の宇宙船を並べることができます。つまりそこに到達するのに無限大の時間がかかります。たとえ光速度に達しない場合でも、もし限られた時間内でこの移動を果たそうとするなら、宇宙船は光速度以上でなければならない、つまり光がまたぎ超えると想定される宇宙船の数以上をまたぎ超える必要があるということです。時間の進みが遅くなり、ついにはとまる、ということの意味がこのようなものであることはナンセンスではないでしょうか。光そのものも宇宙船何個分の距離を走る、という測り方をした場合、経路に並ぶ宇宙船の数が増えたら、それだけ時間がかかるのでなければなりません。だからと言って、時間が遅く進むと感じられることを利用して、単位時間当たりに、より多くの宇宙船の分だけ移動できることを、光との関係のみを考えて正当化すると、今度は光速度の上限を見境なく上げることになります。つまり20光年という距離に、ニュートン的な視点以上に宇宙船が並ぶ状況であれば、どう理屈を付けても光速度が一定であることはできないはずです。20年で戻れないか、単位時間当たり、ニュートン的な視点以上の数の宇宙船の分進むか、どちらかになります。