アメリカでは現在でも進化論を信じない人が四割いるといううわさが伝わっております。この情報をもたらした人も読む人も、アメリカってのはまだそんなに遅れた国なのかと、嘲笑気味にこの話を受け取るでしょう。いくつかの州で進化論の授業を義務教育から外したことも、キリスト教の団体が強すぎること以外の理由を思いつけないでしょう。あの国はまだそこまで野蛮なのかと。
だがアメリカというのは間違いなく現在最高の文明国です。まさか彼らの認識が中世ヨーロッパレベルということはさすがにありません。私はアメリカの色々な部分が確かにきらいですが、本当に先進的な部分においては信頼のおける国だと思っています。その中で、では反進化論の流れが少しずつ増えていることはなにを表すのか。単純に文化の退行現象であると決めつけてよいものか。それはむしろ日本人の視野狭窄と言えないでしょうか。
ここでこれを言うと、恐らく私のばかさ加減にまず呆れる人もいるでしょうが、進化論は実は科学ではありません。そしてこれは必ずしも進化論を貶めた言い分ではないのです。進化論は思想上の、あるいは宗教上の一つの見解であるとすることは、現代日本人に言わせれば科学への冒涜でしょうが、宗教や哲学思想というものは、本来科学よりも上位の概念でなければなりません。残念ながら幼稚な意見が多すぎて、到底科学に太刀打ちできない地位に落ちてしまっていますが、それは科学知識を利用して組み立てるべき上位思想が、科学の複雑さ、豊かさに振り回されてしまっているからです。人間の幸福とは何か、道徳はどうあるべきかを直接論じる学問が、科学より下であってよいはずはないのです。そう思いませんか? 長い人類史において、今が例外の時代なのです。
進化論が思想上の問題であるとは、私に言わせればむしろ誉め言葉でなければなりません。しかし進化論は現状、科学を宗教や哲学思想よりも優先するべきという考え方のアイコンとなってしまっています。
たとえば両生類が爬虫類に進化します。両生類の遺伝子に加えられた偶然の変更が個体の変化をもたらし、それが優秀な能力をもつ個体であれば生存競争において子孫を残す確率が上がります。優秀な、という言葉はナチスが採用した優生学によって誤解されかねないけれど、高い価値というよりも、生き延びる能力という意味です。もしゴキブリが次の環境変化に人類以上の適応能力を発揮できるなら、生存競争に勝つのはゴキブリであり、その意味での優秀さはあちらにあるということになります。しかしたぶん人間が勝つのでしょう。人間は頭脳の良さを考慮にいれなくとも、結構適応力が高い動物です。
自然淘汰という過程は、確率論的、統計学的な事実であり、ある意味での必然性として理解できます。そして突然変異は全くの偶然であるとされます。いかなる変化がつぎに起きるのか、だれにも予想できないのです。しかし変化の後は必然のふるいにかけられます。
すなわち進化論とは純粋な論理学的概念であり、それで生物相を切るという試みに過ぎません。
だがそれでは両生類から爬虫類へのジャンプは不可能であると考える人たちがいるのです。むしろ、常に存在しました。エオヒップスから馬への進化はもしかしたら可能かもしれない。しかし両生類が爬虫類になることは無理でしょう。それはアシカの鰭をもつ犬や、象のように鼻の長い猫を育種できないことと同様です。
だから彼らは両生類という先天的なデザインが存在し、爬虫類という別のデザインがあると仮定します。生物は、デザインの内部で自由に変化し得るが、別のデザインに飛ぶことはできないということです。
この概念の問題点は、まだ十分に枠組みが論じられていないことかもしれません。犬や猫は、それぞれ別のデザインかもしれないし、哺乳類というくくりでひとまとめにすることが可能かもしれない。その点にまだ彫琢の余地があると思われます
だが、デザインである以上、だれが設計者であるのかという問いは当然あるでしょう。そしてインテリジェントデザインという名の通り、それは神であるとされることが多いようです。
そうでしょうか。そこに何か、ものすごい先入観がありはしないでしょうか。もちろん神であると言われても、その時点で私は即座に否定する気にはなれません。ちょっと気が進まないのは確かですが。しかし、それはあらゆる選択肢の、小さな一部であるような気がします。
なぜか。例えば物理学を考えてみます。人はこれこそ科学の中ではもっとも純粋に理論的な分野と思うでしょう。しかしそこにはプランク定数という、これ以上進めない現実の堅い層があり、シュレディンガー方程式という問答無用の形式があり、ボソンとフェルミオンという粒子が存在すします。なぜプランク定数(これ以上分割できないという最小のスケール)が6.62607004
× 10^-34 m2 kg / sなのかというと、現実がそういうふうにできているからだとしか言いようがありません。なぜボソンとフェルミオンがあるのか。自然とはそういうものだからです。入り組んだ数式なので私などネット上にどう書き込んだらよいのかわからないシュレディンガー方程式が、なぜそんな形なのかというと、それはもう自然がその形にデザインされているからなのです(一応現代物理学のいうことを真に受けるとして)。
つまりデザインとは、そんなに不合理な考え方ではありません。そしてオカルトでもない。現実がそうなっているのだから認めるしかない、という、構造の核の部分への言及に過ぎないと思われます。進化論にはそういう、いわば定数と呼べるものが存在せず、純粋な理念になってしまっています。私たちは進化論の考えに慣らされすぎて、それ以上融通の利かない自然のデザインがあると言われると抵抗を感じてしまうけれど、物理学にデザインがあって、なぜそれ以上に複雑な生物のそれがないと考えてしまうのか。
これは神を信じる人にも信じない人にとっても不愉快な言い方になるかもしれませんが、「ボソンとフェルミオンを神様がおつくりになった」ということと「宇宙にはボソンとフェルミオンが存在する」ということは、科学理論上は同価値なのではないでしょうか。つまりデザインは、神の存在を要求しないし、証明もしない。
なお、アメリカでは相当多数のインテリジェントデザインを論じた専門書が出ていますが、遺憾ながらほとんど翻訳されておりません。読むと、私がここに書いたような非常に大雑把な話ではなく、また、哲学に傾いた話でもなく、原生動物の鞭毛の動きとか、細胞膜の働きとか、どちらかというと分子生物学の先鋭的で高度な話題がつまっています。だから、必ずしも面白いとは言えず、一読をお勧めするのはちょっとためらわれるところです。ただ、もはや日本にいて漠然と感じるような、トンデモ科学という印象はほとんどないということは事実です。