タイムパラドックスはホームで隣り合う列車の錯覚と同じ


  2-15 タイムパラドックスはホームで隣り合わせの列車の錯覚と同じ

 相対論の前提では、すべての微小な場所がそれぞれほかの微小な場所との関係によって、空間的な位置や時間を独立で決定するわけなので、宇宙は一塊ではないことになります。すなわち、宇宙にみっちりと時計を充満させても、それぞれが独立の時を刻むのであり、時間は他の時計との関係で決まります。これが意味するのは、一定の空間を切り取って大きな図面を広げるような系として扱うことはできないということです。
 だがそれは原則論であって、何らかの定義によって静止系とか、それに類する一塊とするような考え方はあるのでしょうか。この空間が絶対的であること、すなわち宇宙の全体に対して意味ある位置を持つということは否定されるにしても、空間を切り取ることは可能であって、それを座標と見なすことはさすがに可能らしく、ひとまずは思われます。宇宙の全体に対して意味ある位置を持つこと、とはニュートン空間が誤ってそう信じられていたことであり、その否定をスローガンとして解釈するなら相対論の意見が正しいのかもしれません。では、その過ちにもかかわらずニュートン力学が全体として整合的であるように、部分の正しさだけで相対論にも十分適用可能ということはあり得るのでしょうか。

 とある駅に列車が隣り合わせに停車しているとします。太郎と次郎はこの町で落ち合って今別れるところであり、それぞれが反対の方向へ帰るつもりで窓際同士に座り、アイコンタクトだけで最後の挨拶を交わしています。と、やおら動き出しました。加速度を体感しないということはないでしょうから、絶え間なく出入りする他の列車が引き起こす振動や駅の雑踏ぶりによって気づきにくかったとしましょう。あとは非常になめらかに加速したのでどちらが動いたかはわかりません。両者ともに自分が発車したと思っていました。ところが、お互いがすっかり離れた後、太郎は自分の乗った列車のみがまだホームにいることを知りました。
 最初は一対一の関係であるから運動については完全に相対的であり、どちらが動いたのかわからないということでそれが表現されています。もしこの相対性が結論であるなら、時間の遅れも相互的でしょう。      次に、駅の状態を見て、残ったのが自分であることを知りました。このとき地上の視点を得たのです。方や、次郎は窓外に流れる風景によって動いたのが自分であることを知ります。これも地面に視点を定位することによって自分の動きを推理するのです。では、この時点での時間の流れは、次郎のみ遅くなるということです。もちろんこれは知識を得たから変化するということではなくて、その時々の暫定的な結論を出しておくにすぎません。地球に残る兄と宇宙船で移動する弟という、ステレオタイプなパラドックスストーリーにおける、運動系は宇宙船の方であるという感覚は、地上の風景との対比で決めるというこのときの類比形であり、ごく普通の日常的判断です。しかし一つ気づくことがあります。地上の視点を選ぶとき、人は「どちらも動いていたと思ったのは勘違いであった」として、はじめの意見を訂正します。完全に間違いであるのではなく、列車の車中ではそう信じたことにも理由があると思うのだから、全く捨て去るわけではありませんが、しかし地上の視点に対し従属的であると考えます。しかし相対論では、あくまで車中の視点にこだわり、相手が動いたことと自分が動いたことは等価値であると言い、なおかつ相手の時間が遅れると言うのです。それでありながら、宇宙船に乗った弟が運動系であるという日常的視点でパラドックスを語ります。
 ここにあるのは一つの先入観であって、それは最初から繰り返しているように、暫定的な地上の視点が絶対空間を支持するという勘違いであり、ニュートン空間であろうが相対論的時空であろうが共有するものです。これに対しては、どちらの側からも反論がくるかもしれません。そういう意味で絶対空間と呼ぶのではない、と。部分的な空間と全体は同じ形式を持ちます。なおかつ全体の一部であると認識するのですから、その延長として理解するでしょう。であるなら、部分的認識とは絶対空間の中のひとかけらのことを指すのであり、ほぼ同一視することに何の問題があるのかということになります。これがニュートン的理解の方の意見でしょうか。それに対しては二つの答えがあると思います。視点の移動は根本的な変化である、ということがひとつ、全体の部分であるという指摘があるとき、全体とは何かが本当のところは明らかではない、ということが二つ目です。
 まず二つ目について考えてみる方がわかりやすいでしょう。太郎は自分の乗った列車の方が駅に残っていることを知ります。じつはこれは地球の話ではなく、自転も公転もとてつもなく緩慢なある惑星での出来事です。次郎の乗った列車の進み方はちょうど惑星の自転の反対向きにぴったり合っていて、惑星外から見るとまるで彼の方が固定されており、太郎の乗った列車をへばりつかせたままの惑星の方が回転しているように見えないでもありません。つまり動いているのはむしろ太郎の方であるように見えます。惑星の質量を改めて問題にしたいのであれば、この惑星系の太陽の中心から伸ばした線上にたまたま次郎の列車がとどまり続けていたことにすればよいでしょう。この時点での結論は、静止しているのは次郎であり、太郎の時間の流れが遅くなります。
 もちろんこれが最終的な判断ではあり得ないことはすぐに察せられるところです。この惑星系は銀河系の腕の大きな一つ、ペルセウス腕の中の小さな散開星団に属しています。その散開星団の重心に対して運動状態にあるのは次郎であることが判明します。しかし銀河系全体に対してはむしろ彼が静止状態にあるのです。もちろん、どちらかが静止状態にあるとすることはあまりにできすぎた話で、両方移動状態にあり、その中でどちらの動きが大きいかという形の方が多少でも真実味があったかもしれません。単にわかりやすさから選んだ表現でした。
 この循環はどこまで続くのか。少なくとも一つ言えるのは、宇宙全体に対して太郎と次郎のどちらがより大きな運動状態にあるかという問いはナンセンスであるということでしょう。全体を見ることなくその答えを出せるということが絶対空間の意味であろうと思われますが、運動は系の切り取り方によって常に相対的です。
「根本的」とは単なる形容に過ぎないので、視点の移動について語る一つ目は消極的な意見になります。少なくともこの場の議論に理論的な寄与を持つものではありません。相対論側がこれを理由にニュートン式空間に文句を言うとき、私たちは何かしらの説得力がある気がするという、その程度です。しかしながら、視点の移動は根本的な思考改変であるということは、太郎と次郎のどちらが動いたのかという問いに対する答えの出しにくさに現れているのかもしれません。
 ところで、通俗的解説書のタイムパラドックスの項で使われる例はどちらが運動系であるかが先入観として読者に刻みつけられやすい話になっています。これは、その話を信じてしまう側も無思慮ではあるのですが、話者の錯誤によるものであることは明らかでしょう。と言いますのも、自分の属する系に対抗する系は、もし相対論を信じるなら単一の記述を許さないはずなのです。相対論の提示する系に対する考え方は、見かけ上は一対一ですが、事実上は一対無限の変数です。一対いくつか、ですらありません。それは多数の宇宙船から私の時間を評価する例や、あまたの銀河から見て私たちの銀河系の速度を推定することや、さらには光時計の有効である方向と機能しない方向の対比など、あらゆる場面で出くわす錯誤の一例です。すなわち、視点を地球に残る側におけば乗務者の系が、乗る方であれば地球側が、ニュートン力学的な単一的思考法で把握されているということなのです。もちろんニュートン力学ならそれでよいのであって、私から見た私と、彼から見た私は同じパラメータを持つという前提が等価であることを保証します。しかし相対論は彼の見る私と私の見る私は違うと言います。なんとなく、支持したくなるような設定ですが、もしこの人数を増やしていた場合、私は誰の視点をもとに考えたらよいのでしょうか。
 たとえば私の時間が0から無限大まで自在に変化できる理論はナンセンスなのであって、云々の量であると確定させたうえで論じることが科学です。確定させるとは、真実を言うことであるなどと考え込む必要はなく、意味ある話を複数人でかわすための最低限の約束事であるにすぎません。
先に10光年の距離を光の4/5の速度で飛来する粒子の例を挙げましたが、相対性理論の計算に従うならこの距離は6光年であり、そこを7.5年かけて飛んできます。ミンコフスキー空間において、驚くべきことにたいていの飛来物は光よりも早く地球に到来するのです。アンドロメダ大星雲まで230億光年として、超高速の宇宙船を使えばおおいに時間を短縮し、さほど年を取らずに行ける、などという解説を見たことがあると思います。ならばあちらからくる場合も同じであるはずなのです。
 なぜこのような不合理な主張がなされるのか。実はこの計算では光にとってこの距離は0なのであり、移動時間もしたがって0なのです。そういう仮定を置いて、その中である速度を持ったものがいかなる運動をするかということを考えるのが、この計算の(話者にとって不用意であるという意味で、意図されない)意味です。ただしリゲルまでの距離も0であり、亜鈴星雲までの距離も0であり、ケンタウルス座オメガやクエーサーまでの距離も0とみなされ、いずれも光にとっての到達時間は0なのです。

 一つ言い添えますと、もし個々の事例について考えるなら、その計算自体には多少意味があるのかもしれません。ただし、それらを一つの空間内に定位し、まとめて論じることはできないでしょう。いかなる理由があるにせよ、クエーサーも太陽も、ましてや隣の家までも同じ距離であるとみなさざるを得ないような計算式が正しいということはありえないのです。
あるクエーサーならクエーサー、リゲルならリゲルについて、相対論の考え方で光の行き来と宇宙船の行き来を比較すること自体は意味がないわけではない、とは、いうなればそれを閉じた一次元空間とみなすということことです。それがかりそめにも現実の空間内に定位され、認識の対象となるには、つまりほかの一次元空間との関係を論じるためには、すべてがまともな3次元空間の中におかれ、130億光年であるとか800光年(たとえばリゲルなら)であるとかの有意義な量を与えられ、かつ相互の位置が決まらなければなりません。それはミンコフスキー空間を理解する私たちの頭の中の作業であり、表には出ないから科学者はないものとみなしているのかもしれませんが、間違いなく実行されています。